なまずランプ雑記帖 021~030 (ブログの文章の過去ログをまとめたものを加筆修正)




038 投げ込み墓地

回向院の投げ込み墓地でありんす。
(なまずランプ「単行本1巻」参照)

  

貧民や伝馬町の罪人等を埋葬しました。回向院は元々が災害や刑罰などが死因の人々を弔うための寺でしたが、ここに限らずどこの寺でも大なり小なりこういっ た墓地はあったのではないでしょうか?早桶・棺桶などを用意できない場合はいろんな入れ物も使用されたようです。
(※何気に茶箱が露出…)

投げ込み墓地はとにかく埋葬が雑です。
掘り方も浅いし、畑の畝のように順列に埋めれて木の棒が立てられるだけでした。見た訳ではないですが


ほとんど鳥葬 だったんじゃないの?


とまで思えてしまいます。
面積が限られているので埋めた遺体が骨になる頃にはその上をまた「次の埋葬行列」が通過した事でしょう。

そ もそも250年間以上にわたって100万都市の平民の死者をきっちり区切って埋葬していく事など物理的に絶対不可能です。
自然にこうなって行くのも無理は無 いですね。逆にそれが出来ない現代都市の墓地はもはやロッカーのようになってます。この先どうして行くつもりなんだろう?





039 自身番 
 

第一巻でもよく出てくる自身番。
だいたい1~2町に1軒。嘉永年間には江戸全域で994軒あったといいます。

よく時代劇で交番か留置所、取り調べ所のような描かれ方をします。それはそれで別に便利なツールとしてアリだと思います。

内部には捕まえた者を一時的に繋ぎ止める鉄の輪などが設けらたりもしていました。 

でも実際はその町の行政役所や連絡所、消防詰所としての役割の方が強かったようです。久松町の自身番にはちょっとした掲示板を付けてみました。

自身番では町に雇われた書記官が滞在して届出書類などの事務仕事をし、時には町内の者が溜まって碁を打ったりまるで公民館のような状態にもなったとか。
特徴的なのは表に立てられた鉄棒(かなぼう)。夜は番人がこれをもって見回ります。

基本的には平屋の小屋のような建物と決められていましたが、実際には二階建てなども存在したようです。

この自身番も中二階のような簡単な二階部屋があるような裏設定にしてます。





040 英国人の見た列島地震

ちょっと戻って先々週発売の5話目表紙。

  +

安政大地震は安政2年10月2日だが、実はこの一年前にも東海と南海で大地震が起こっておりまして、その他にも小さな地震が多かったようです。これらの地 震が民心不安、政情不安を加速させた事は間違いありません。
ある夜に小さな地震が起こった時の様子を、幕末に来日した外国人が伝えています。要約意訳すると

「ベッ ドで就寝中の明け方4時、建物が大きく揺れたので起こされた。(過激派の侍の)襲撃だと思ったが、地震だった。僧侶は寺院に殺到してお経を唱え、修験者は 祠で鐘や太鼓を鳴らす。日本人の召使は外へ逃げ出し大騒ぎになった。」

とあります。安政大地震より何年も後の話です。
大地震の記憶が人々にとって余程トラウマだったのか、それとも安政大地震以前からこの国民はこんな調子だったのかは分かりませんが、地震があると人の声や 遠近からの鳴り物の音でかなり騒々しい事になったようです。
このような空気の中では「日本沈没」という終末的発想もごく自然な事だったのかもしれません。






041 掘りぬき井戸
 

モーニングの一コマ
江戸では井戸は三つに分けられると言います。

1-水道の井戸
2-中水の井戸
3-掘抜井戸

「1」は地下を走る「水道」の汲み上げ口。市街地のあちこちにあります。上流の綺麗な水が張り巡らせた木製水道で江戸全域に供給されていました。この水は 洗顔や食物を洗ったりするのに使用します。さすがにそのままでは飲料には適さなかったようです(ろ過すれば飲めた)。

「2」は雑用。掃除、防火用や食物を冷蔵する目的の浅い井戸。魚店にはよく備えられていたようです。
 実は江戸は大部分が埋立地の上に創造された都市なので下町などは掘るとすぐに水が出ますが、海水のような塩気がありました。水質もとても飲めたものでは ありません。

で、「3」がそんな江戸の岩盤をかなり深く掘って得た飲料可能水の井戸。これは非常に手間をかけた工法(アオリ工法という)なので少々金がかかるといいま す(安い物で3両2分)。この掘抜き井戸を豪華に作ったせいで父親から勘当された商家の息子もいたとか。

では飲料水はどうやって手に入れたかと言うと、「水売り」というのが居て各家庭で買っていたようです。

東京では今も昔も水は買うものらしい。

(ところで噂の「東京水」ってもう供給されてるのかな?あんまり違いが判からないような…)






042 高輪の牛

江戸の街中に牛が往来しているイメージは無い。どちらかというと馬。武士の町だからというだけでなく、農村の鋤耕なども馬が使用されていました。飼育され ている頭数も圧倒的に

関東は「馬」
関西は「牛」

です。
でも海岸沿いの江戸高輪には俗称「牛町」という牛飼いの町があったとか(本当の名前は「車町」)。
1634年と1801年に幕府による大きな工事の仕事で京都から牛飼いが呼び寄せられ、その後定住したのがこの場所だといいます。

この町では1000頭以上の牛が飼われていて、荷運びでひっきりなしに往来します。きっと道にはワダチが多かった事でしょう。もしかしたら深く刻まれたワ ダチが固定化されてレールのように使用されたりもしたかも。

 

↑「高輪」(一部分)モーニングより


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路上の糞も大変だっただろうなぁ。

でもすぐそばが海だしそうでも無いか…






043 勝海舟登場!

勝海舟(勝麟太郎)
(今週のモーニング 8話目より)

  


こ れまでかなりマイナーな実在人物なら登場してますが、これ程知名度の高い人物は初めて(後ほど他の有名人も登場します)。
この髪型、この時期の彼の写真を参考にしてます。月代を剃りちょんまげを結う習慣を続けてきた人達は、月代を伸ばしても何となく髪の毛の癖が残って しまうようです ↓


  

ペリーの黒船来航で日本中の若者が攘夷のイデオロギーに魂を燃え上がらせた時、彼は既に31歳でした。

捨て身の情 熱に身を焦がすには大人になり過ぎており、
かといって保身のみに徹する程は老いていない。


そして幕府役人となってからは益々「リアルな状況」と向かい合わなければなりませんでした。

(…う~ん共感できる!)


仕事師で技術屋、そういった立場でもあったといいます。
一方で正真正銘の命知らずでもあり、ギリギリスレスレの冒険も繰り返しました。大胆不敵で決して凡庸な役人ではなかったようです。

性格は根っからの江戸っ子で、癇癪持ちでキレやすい。
が、無鉄砲なビックマウスを、装いながら注意深く努力家でリアリストな面も持つ。

こんな人、誰の周りにも一人は居るような…
僕の好きな人物の一人です。





044 屋形船と屋根船

  

(今日発売の9話目より屋根船)

江戸時代に関する本を読んでいると、よく

「屋形船」と「屋根船」は違う

と解説されています。
屋形船というのは大名などの上級武士が使用するもので、巨大な屋形を備えた船を指したようです。文化年間は20艘ほどもあったらしいですが、幕末には数え る程になっていました。

んで、よく町人などが芸者遊びに使用するのが上図の「屋根船」(日よけ舟)。数百艘あったとか。真冬でも側面に障子をはめる事が出来なかったらしいですね。一応すだれが掛かっています が、原則として武士以外は上に巻き上げておきました。

遊船の船頭は小粋で着流しだったといいます。




045 地震となまず  20100115


「地下のナマズが地震を起こす」というのは実はそんなに古い発想ではないといいます。
江戸時代の半ば、1600 年代後半から地震となまずを結びつける考え方が広まったらしい。

それ以前は「地下の大蛇(龍王)」が有名でした。
それがなぜなまずに変化したのかはよく判ってませんが、琵琶湖辺りから広まったとも言われます。琵琶湖には国内最大種のビワコオオナマズが生息しています がこの辺りと関連があるのだろうか?

なまずはウェーベル氏器官という感覚器を持っています。地震の前によく暴れると言われるのもこの辺りで何か感知しているのかも。そういう現象を事前に見て いた人々が地震となまずを結び付けたとしても不思議では無いですね。
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… 僕はなぜかこの「ウェーベル氏器官」という言葉だけは知ってました。実は中二の時、夏休み自由研究で『なまずの地震予知』というテーマを扱った事がありま して。その時に図書館で調べたのです。大人になってから覚えた事はすぐ忘れてしまうのに、子供の頃の事は些細な事でも覚えているもんですね。

なまずは手に入らず、用水路でドジョウを大量に採ってきてバケツに入れ、そこに乾電池で電流を流して暴れるかどうかを観察する、というなんとも短絡的なも のでしたが、まさか自分が将来これをテーマに物語するとは思いませんでした。

(あれ?あの時のドジョウたち、最終的にどうしたんだっけ? 覚えてないのが何かこわい。)

(10/01/15)



046 安政六年@勝海舟の家01 20100121

勝海舟の屋敷をイメージするにはやはり現地に行ってみるのが一番。

なまずランプの頃(安政6年)の住所へ。当時は「赤坂の氷川神社裏、成徳寺の隣」です。現在の「東京都港区赤坂6丁目」。
この場所↓



この辺りは幕末とあまり区画が変わっていないので想像しやすい。あくまでも想像図ですが↓
門は身分にあわせて移築現存しているものよりも小さなものにしました。



緑の矢印は路面の傾斜。
背後の氷川神社を頂上とする丘陵の中腹に位置するためです。

上の二つの図を重ねるとこんな感じ↓



(最終的にどういう姿 になったかは、単行本三巻をご覧ください。)

(10/01/21)





047 安政六年@勝海舟の家02 20100123

前回も少し触れましたが実は、

「勝海舟の屋敷の門が移築されて現存している」

資料になるかもしれないと行ってみました。練馬区石神井の三宝寺。

彼は安政3年に小十人組100俵取(最下級の武官)となっており、なまずランプ(安政6年)の勝海舟(麟太郎)の身分もこのくらいでしょう。

江戸時代は身分によって門の大きさを決められている。この時期ではそんなに大した門構えではないはずです。
しかし、三宝寺に保存されていた門はというと…




デカイっ!!
彼がもっと出世してからの門なんでしょうか。
 彼はこの翌年に400石に出世している。もしかしたら引っ越す1859年時点で、それを見越してこの門を持つクラスの屋敷を選んだのかもしれませんが… どうでしょう?

門に付けられた解説パネルは下の通り。



勝海舟の門を譲り受けた月兎園(東武鉄道が大正13年から昭和18年まで営業していた総合レジャー施設)からまた移築した門らしいですね。そこにはそれ以 外の情報が全く無い。

この門、

 …本当に本物か?

 …いや、まぁ、本物なのでしょう。
本物なら何かしら勝邸時代の痕跡らしきものは残っていないものかと見て回るが、よく判りませんでした。







この立派過ぎる高い格式の門をなまずランプ安政6年当時の下級幕臣・勝海舟邸に使うのは厳しいかもしれないと思ったわけです。

(10/01/23)




048 勝の大砲



(モーニング誌面より)

 列強の波しぶきが鎖国日本にかかり始めた頃、幕府も海防に力をいれ始めました。そんな中、勝海舟は蘭学塾を開く傍ら、諸大名のために大砲鋳造をしてやっ ていたといいます。

 でも雇っていた鋳物師が金属配分を誤魔化して不当な利益を貪っており、その事を勝に悟られると今度は賄賂持参で共謀をもちかけてきた事もあったとか。勿 論叱りつけたらしいですが、その時鋳物師が言うには「諸先生皆お受け取りになります」だったようです。

 官需に関わっていろいろな部分でいろいろな物が貪られるのは洋の東西、時代を問わずだとは思うが、情け無い話です。

 これはペリー来航直前直後辺りの出来事だったといいます。ペリー来航以前から既に日本全国で列強に対する危機感はかなり高まっていました。そういう下地 があったからこそペリー来航事件に起爆力があったようです。



 ちなみにこの時勝の大砲製造に掛かる費用は600両で、お礼として300両受け取った。
この時期の蘭学者とは結構金になる職業でもあったのかもしれません。

(遅ればせながら8話目でオランダ語翻訳してくださった方、本当にありがとうございました!)




049 江戸、芝浦  (2010/01/29)


(↑モーニングの11話目より)

江戸時代の芝浦は雑魚場という漁業盛んな河岸があり、日本橋の魚河岸と張り合う場面もあったといいます。
江戸前の上等の魚がとれたようです。シバエビなどもここ に由来します。
この辺りは遠浅で、現在東京湾ではほぼ全滅してしまった「干潟」が広がっていたとか。干潟は水の浄化作用があり、生物の繁殖にもかなり大き く貢献しています。

 … 江戸の夜は本当はもっと真っ暗な雰囲気だったんでしょうけど絵にすると多少明るくせざるをえないもんですね。以前、キューブリックが「バリー・リンドン」 という映画で中世の「蝋燭の灯火のみの薄暗さ」を見事に表現した、と聞いた事がありますが今度見てまた感想をUPしたいです。

(10/01/29)



050 正月飾り



(↑モーニング11話目より)

 物語中で特に触れられていないが、平次郎が手にしているこれ、舞台は年末という事で船宿にある正月飾りです。門松、注連縄などの正月飾りも職業や身分に よって随分違っていたようです。

 本物は下の写真。深川江戸資料館で展示されていました。 この資料館はこじんまりとしている割にはかなりオススメです。江戸東京博物館と同じくらい得るものがあると思いますよ。








051 江戸前 (江戸の沿岸部)



芝浦でも少し触れましたが、江戸の沿岸部分は干潟が広がり、海もかなりの範囲が遠浅だったようです。お陰で海産物が豊かでした。

「江戸前」(語源は江戸手前だとか)と呼ばれる漁場の事です。
 
品川沖も遠浅で、そこに船が行き交う澪筋が走っていたといいます。
「押し出し」と呼ばれる大川(隅田川)からの水流の影響も強かったようですね。

下の写真は数年前に海上保安庁の観閲式を見学した時の巡視艇から見た品川沖です。
今では画面左に埋立地が広がって面影はまるでありませんです。


 









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