なまずランプ雑記帖 028~035 (ブログの文章の過去ログをまとめたものを加筆修正)

028 首の落ちる穴
単行本第1巻発売記念!という事で第一巻に出てくる幕末の処刑場「土壇場」の切られた首の落ちる穴について)。
これは第1巻の1話目という事もあり、結構時間をかけて考えてみました。現地にも行ってみました(詳しくはコチラ
よく使われる『土壇場』という語は元々処刑場の事です。
土で壇が築かれていたのですが、伝馬町の処刑場の図(当時のものが数種類残っている)には何も壇のようなものは描かれてません。そこにあるのは平らな地面にあいた、首の落ちる穴 のみ。

 

別名「血溜まり穴」とも言われたようです。当時の図はどれも穴の形が違ってますね。単なる穴だったり、キチンと四角に掘った穴だったり、四角に掘って木材のようなもので枠が作ってあったり…etc。
ちなみに上図は明治に入ってから描かれた図ですが、これは本当に掘っただけの穴。

「いったい首が落ちたのはどんな穴だったんだ!?」

気になって夜も眠れませんでした。
もしかしたらその時々の簡易施設だったので元々定まったものでは無かったのかも。

…でも伝馬町は当時日本最大規模の牢獄兼処刑場。諸国から罪人が送られてくる。結構斬首もある(安政の大獄の最中だし)。ある程度は工作されていたんじゃないでしょうか?

そ んな中で幕末に日本に訪れた西洋人エメアンベールの幕末日本図絵(下図)を見つけました。彼は在日期間中に収集資料を行い、帰国してから出版したらし いです。西洋人の描いたのは中国とゴッチャにしたり描写が変だったり、いい加減なものも多いようだが、彼のは結構リアルに思えます。

彼が実際に処刑シーンを見た訳では無いでしょうけど、その刑場の図は日本人による他の証言とも一致が多いです。刑場の柳や死体を入れる俵、首切り人の位置などなど(もちろん彼の他の風俗図には細かい間違いが所々あるというのでまるごと信用はできませんが)。

穴には何やら斜めに格子がはめ込まれ、ある程度ちゃんとした施設になってます。見ようによっては穴では無く「溝」にも見えるのですが…?

 

しかし他の図は大体どれも「穴」として描かれてます。資料によっては穴のサイズは「四尺四方」と記している。
また普段は蓋がしてあったという話があります。それは「施設」といえますね。


以上、これらの情報を踏まえつつ描いてみました。
幕末都市伝説:なまずランプ単行本1巻


 …生首が見上げる空は何色なんだろう。






029 講とは

講とは?

現在では有名なのは「ネズミ講」。他にも金絡みでいろいろな仕組みを作ったものがありますが、これらも全て江戸時代なら「講」と言えるようです。

(金に限らず)江戸の講は「宗教or思想or金or学問上の目的を共有する人々の組織」という事らしいですね。
しかし調べれば調べるほど「講」の表すものは多種多様で、「こういうものだ」という核が見えません。

た とえば緊急出費に備えた親戚間でのお金の積み立て仲間や、団体参拝旅行のためのお金の積み立て仲間、同じ学問の仲間、同じ宗旨の集団、礼儀作法や生活防衛 の研究会、etc、本当にいろいろなパターンがあります。もしかしたら今の大学のゼミなども当時なら講なのかも(「講師」などの語もこの辺りに 残っている)。

江戸の町中にはこういったサークルが沢山あって、それが都市文化を育む苗床にもなっていたようです。

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さてさて、ではこの物語に出現したお講はいかなる…?
詳しくは単行本2~3巻をご参照ください。







030 江戸幕府の巨大金庫

蓮池御金蔵は江戸幕府財政の要でした。
江戸城の富士見櫓の下にその金蔵があったといいます。どんな様子だったんでしょう?

文政の頃(なまずランプより3~40年前)の記述によると「全部で4棟あり、いずれも5.5m×10m前後の大きさ」だったといいます。それが一列に配置され、木の柵で仕切られていたようです。その様子は当時の地図にもしっかりと記載されています。

ではこのなまずランプの頃(1859年)はどんな様子だったのでしょう?

少し時代下りますが明治初期(1880年代)の江戸城(皇居)測量図に御金蔵らしき建物が記されていました。

あ、4棟が2棟に減っている!(下図)。



いつの段階で減ったのだろう?
幕末の度重なる火災の時だろうか?
それとも明治に入ってからだろうか?

維新後は金蔵として使用されていなかったようです(軍の弾薬庫だったとか)。
不要になって取り壊したのかもしれない。

安政年間の状態は分かりませんでしたけど、まだしっかり現役だったはずなので過去の文政年間の配置を取り入れながら明治時代に撮影された古写真を参考にしました(写真はあるのよね)。


なまずランプ単行本第1巻をご参照ください。






031 プリズン・ブレイク・ブレイク~
 

単行本第一巻より、牢名主「閻魔の与七」


メインキャラでも無いのにテロップ。

安政6年当時の実在の牢名主です。
強盗で捕まって収監され、牢名主の地位に上ったようです。彼については逸話があります。


ある夜、与七の隣房の牢名主が彼に話しかけた。

「深夜ウチでは物音がうるさいかもしれないが、勘弁してくれよ」

…つまり何日かかけて房内が共同で少しずつ格子を切り、脱獄するつもりなのだ。
牢名主同士の仁義もあるので一応ことわりを入れたのだろう。
与七は了解の旨を伝える。

しかし翌朝、役人が巡回に来ると与七はその事を訴え出てしまった。
自らの刑の軽減を期待したのである。

当然破牢を企てたその牢名主は死罪になる。
ところがその甲斐も無く、結局与七も死罪になってしまったという。



…これは時期的に平次郎が牢を出てしまった後の事です(笑。

与七がまるで裏切り者みたいですけど気持ちは分かります。
自らの刑軽減を期待した部分もあったでしょうけど、破牢発覚後にとばっちりを受ける事も当然予想できますので。
「プリズン・ブレイク・ブレイク」をせざるを得なかったのでしょう…。

ちなみに伝馬町で破牢が成功したケースは極少ないという事です。





032 ナマヅ講ヨリオ知ラセデス
****ナマヅ講ヨリオ知ラセデス****

本日発売ノ 週刊モーニング誌面ヲ ゴ覧ノ通リ

ソノムカシ 安政年間ニ 風科光馬講師様ガ

御念ヲオ入レニナッタ ナマヅ講ノ秘符ヲ 

ゴ自宅ノ壁ヤ柱ナドニ貼リマスト ドンナ地震ガ来テモ

決シテ倒レマセン

ソノ秘符ヲ コレヨリ インターネット上デモ 配布イタシマス

プリントアウトシテ ゴ自宅ニ貼ッタ後

シバシ ナマヅ様ニ オ祈リヲ捧ゲマショウ

アナタガタハ

キット救済サレマス

キット選バレマス

ナマヅ様ニ オ祈リヲ捧ゲマショウ







033 金持ちと貧乏人  20091204

なまず(地下で地震を起こすとされた魚)の図案の印刷物は、なんと安政大地震(1854年)が起こった翌日から瓦礫の山の江戸市中に流通しました。地震のショックもなんのその。

当初は憎しみもあって「なまずを退治する、又は懲らしめる」という画題の印刷物でした。

…でもそれが変化を始めます。

地震の復興のために富裕層が大量の資金を投入し、下層民に一時的好景気が訪れたのでした。
江戸では火事は日常茶飯事でしたが、地震では火事から財産を守っていた土蔵が倒壊して富裕層に大ダメージを与えたためです。

そして、なまずはヒーローとなります。

  

印刷物の画題が変わってきたのです。
その内の一枚が5話目にも現れるこの絵。
なまずによって一時的に富の不均衡が是正される様子を絵にしたものです。



僕はこの絵が好きですね。
当時の実情を表現していると同時に、江戸っ子の持つある一面をよく表している気がします。

ここからは貧困ビジネスまがいの思想とは似て非なるものが伝わってきます。

自虐の笑い 、です。

金持ち共は口から肛門から薄汚く溜め込んだ金銭を吐き出させられ、
貧乏共はそんな金銭をあさましく争いながら拾い集める。

そして地震被害の完全には回復していない都市で、そんな印刷物を作って売り捌き、また買い求めているのが当の本人達。
しかもベストセラーだったと言うから呆れた話です。

江戸っ子というと粋でイナセな明るい面ばかりが頭に浮かびますが、こういうやや内向きで自虐的な姿も江戸っ子的と言えるのでしょう。
(もちろんいろんなタイプの奴が居たでしょうけど)


しかしトータルで見て実際の彼らの生活は相当厳しいものでした。
自らを茶化しながらも江戸市民達はその潜在意識の中で、大災害によって生じる大きな変化を待っていたとか言う人もいます。期待と不安を抱えつつも。

それはまた終末の後に理想郷が生まれるという「終末ユートピア」の共同幻想でもあったとか。

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…ちなみに僕はどっちの人間になりたいかというと、





 金持ち



034 瓦礫の山はどこへいく? 20091206


火事、水害、そして地震、災害が多かった江戸の町。毎年のように大量の瓦礫が出た筈。ここで疑問です。

そんな瓦礫はどこへ行ったのだろう?

いくら「超リサイクル社会」だったとはいえ全部再利用という訳にもいかない。廃棄物は隅田川以東の海岸沿いの埋め立てなどに使われたといいますが、今のようにトラックも無いし舟や荷車だけで江戸全域の瓦礫をそこへ持って行くというような事が可能なんでしょうか?

発掘で見られるところによると、どうも瓦礫は地面に大きな穴を掘って捨てられたりしたようですが。
また土地の地ならしにも使用されたりしています。時々見られるのは「火事の後始末で土地の高さが上昇した」、というような記載。

しかしそれだけで全てを後始末できるものなのか疑問ですね。何か面白い事実が見つかるかもしれません。

いつか調べてみたい。

2009-12-06




035 八丁堀役人の家-その1

 週刊モーニングの6話目より。

八丁堀の同心(下級役人)の邸宅を内側から見たところ。
役人の地所は細長い長方形をしている事が多く、本人はその一番奥に小さく居住していました。余った土地を他人に賃借していたのです。なので

自宅の門をくぐるとまず他人の住居

下級役人とはいえ住むには広過ぎる土地を幕府に割り当てられていたためこういう事になりました。武家地なので町人は制度上住みづらく、医者や学者が多かったようです。

八丁堀の同心の屋敷については図像資料が少なくて困りました。
次回もその辺について更新します。





036 八丁堀役人の家-その2


これは先週の5話目、八丁堀同心の組屋敷。
資料があまり見つからず困りました。

建坪は実際より意図的にやや大きく書いてます。
同じ石高の他の幕臣よりは遥かに裕福な暮らしをしていましたで絵的にも表現したかったのです。
無かったかもしれない「玄関」も敢えて小さいのを付けてみました。
昔「江戸東京たてもの園」(←お薦め!ただし交通不便)に八王子千人同心の組頭の家を見に行った事があり、そこには立派な玄関がありましたっけ…あくまでも組頭(隊長)の屋敷ですが。
玄関はある程度の地位が無いと付けられない。その境界線はどこら辺なのでしょう?

あと犬。八丁堀はとにかく犬が多かったらしいです。





037 八丁堀役人の家-その3



今週のモーニングの第六話目の役人の書斎。
個人の書斎にまで格式や制度がある訳ではないのでここは生活感重視という事で…

   実家の書斎を参考にしました。

曽祖父、祖父、父親、と代々使用してきたので中々年季が入っている純和風書斎。

ちなみに江戸時代の侍は、こういう個人的な場では使用する「座布団」も人前では使用しませんでした。例え殿様が家臣に対面する時でも使用しない事が多いようです。座布団はかなりラフな印象を与える物だったようです。

映像時代劇でも最近はちゃんと使用されて「いない」事が多いですね。




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