なまずランプ雑記帖 021~030 (ブログの文章の過去ログをまとめたものを加筆修正)


021 江戸の裁判風景
なまずランプ1巻の1話目に出てきた町奉行所の白洲風景。
江戸では町人が犯罪を犯した場合ここで審議されました。



  審議といっても細かい取調べは事前に吟味与力などによって行われており、高級官僚である「町奉行」の前では主にそれらの確認作業だけでした。町奉行はほと んど黙って聞いてるだけだったとか。町奉行が囚人に直に声をかける事もあったけど、そうなると審議が中断してしまうという事です。
なので、お白洲に囚人と奉行をつなぐ階段も無い(でも階段に片足かけて見得を切る遠山の金さん、アレはアレで好き。娯楽としては大正解だと思います。)  

 それに町奉行には裁判技術が培われていない事が多いようです。幕府の世襲貴族として生まれた彼らにとって町奉行職は、出世街道の過程で留まっただけの枝、でしたので。とは言っても一応選ばれし者だったので無能って訳でもないでしょうけど(希望)。
 白洲で町奉行に一番に要求されるのは忍耐でした。町奉行は権威の象徴なので、白洲が開かれている時は真夏でも扇子で扇ぐ事は許されず、真冬でも火鉢は使えない。勿論タバコも禁止。延々と続く訴訟の間、じっと背筋を伸ばして鎮座していなければならないのでした。

  一方、実際に審議をして判決草案を作る「吟味与力」は十代の頃からその道一筋で厳しくノウハウを叩き込まれて、技術はある。…ただそれと引き換えに 彼らにはそれ以上の出世はあり得ませんでした。
必然的に様々なしがらみや癒着も多かったようです。まさに「留まった水は澱む」でしょうか。
 
 しかし裁判と言っても町奉行所のやりたい放題ではなく、監視するために図中の「目付」と呼ばれる別組織からの監視人が折節出張してきていました。当然奉行所内の官僚からはけむらがられたという事です。
※ちなみに当時は徹底した前例踏襲裁判(これは今も同じか?)。 

 時代劇のような個人資質による裁量の部分もあるにはあったが、相互に監視されて厳格なルールが存在したらしいですね。

    ---------------------------------------------------------

 余談ですが、現代の大臣と官僚、またはその他の上司と部下の関係をはじめ、派閥、世襲、癒着や天下りなどの成分を見ると、江戸時代から引き継がれた役人体質の成分が非常に多い事をいろんな研究者が指摘しています。
 …でも現代人にはそう言われてもピンとこない。なぜか?その原因は「ちょんまげの有無」でしょう。これのみと言い切っても良いと思います。イメージによる断絶があまりにも大。

 なまずランプも過去の延長としての現代というよりも、『現代の延長としての過去』として幕末を書きたいと思ってきましたが、この「ちょんまげ」の持つハードルを越えるのは中々…






ココカラ第二部連載時以降↓


022 菜屋のフタ
さてこれは何でしょう?


よ く農民が使用している笠に見える。僕もそう思って手に取ったけど、売り手によると「鍋や食物容器のフタ」だと言います。 なるほど確かに取っ手が持ちやす く、ワラ製なので湿気も逃がしてくれて機能的な民具でした。何か妙に惹かれるものがあったので200円ほどで購入。 何年も前の中国雲南省・ナシ族自治 県・長江源流域のある村落です↓
      

で、 これをなまずランプの菜屋で使用しました(今週のモーニング誌面を参照してください)。こんなワラブタが日本の江戸時代にあったという証拠は無いけど、仮 に在ったとしてもこういう生活消耗品はありふれている為に資料に残らない事が多でしょうねぇ。また現存する事も無いでしょうし。

…と、ある日同じもんが日本(現代)で使用されているのを発見。
たまたま通りがかったある商店街で↓



なんと!
プラスチック製だったけど使用方法も形状もそっくりだ! 

東アジアの対極にある農村民具のフタ、それと同じ形状のモノがここにある。これは地域を越えた普遍的な民具の形状なのかもしれない(…ん?誰か笑った?)

『このプラスチックのフタはいつごろから使用されているんだろう? …もしかしたら昔はワラ製だったとか?』

道具というのは素材を変えながらも意外と形状はそのまま引き継いでいる事が多いようです。その事は近世も現代も変わりません。僕は自宅からワラブタの現物を持ち出し、その店(老舗の味噌屋)の70過ぎくらいの老婆に直接聞いてみる事にしました。

「…あのぉすみません」

ワラブタを片手にその味噌屋の老婆に話しかける。

このプラスチックのフタはいつから使用されいるのか?

ただこれだけ聞き出すのに結構な労力を費やしました。
何故ならこの老婆は明らかに、

僕がこのワラブタを売りつけようとしている と勘違いしていたようですので。
老婆は「そんなワラブタは要らない」と繰り返す。で、なんとか誤解を解いてやっと聞き出した所によると、

「このフタは仕入れ元の味噌蔵がくれたもので、老婆が記憶を辿れる範囲内では嫁にくる50年前から既にこの素材で使用していたような気がする」と言うことらしいです。

まぁ、この両者の一致は面白い。





もしこんなワラブタが日本の民具にも存在しているのを知っている方がいれば教えてくださ~い。

---------------------------------------------------------------

菜屋。

店構えは図版資料がみつからなかったのですが庶民相手の気軽な惣菜屋なので決まった形式は無かったんでしょう。
幕末の風俗書「守貞‘漫’稿」によると、「大きなドンブリ鉢に惣菜を入れてディスプレイ用の棚に並べる」とあります。独身男性が多い都市社会なのであちこちの街角で重宝されていた事でしょう。オリジン弁当みたいなものかな?この他にも煮豆屋などというのもあったようです。
 菜屋、煮豆屋はあくまでも下層庶民のモノであり、ちゃんとした店構えの店主などの町人は利用しなかったと思われます。



023 賭場
当時の賭場、なかなか資料が無くて困りました。
江戸時代の博徒は野外にゴザだけを敷いて打ったりしている。



賭場のシーンは映像時代劇ではしょっ中出てきてお馴染みです。
畳があって敷布団が並べられていて木綿白布が覆っていて…という設備。

あれはあれで雰囲気があって好きですが、時間もあるし一から書いてみようかと思いつつ当時の図版を探しました。
 
そして見つけました。その図版(ただし18世紀:通人三極志)に限っていえば、賭場は思いの他シンプルな様子でした。実際はどこもこんなもんだったのかもなぁ。
博打は今と同じく当時も犯罪。手入れが急に入る事だってある。設備など凝らないに越した事は無いのかもしれません。
という事でなまずランプでも賭場はそんな感じにしました。

(なまずランプ第2巻よろしくです(笑)




024 山伏井戸
江戸の久松町には山伏井戸という井戸があったらしい。
東京中央区史にあった記載を一つにまとめると、

『山 伏井戸は昔山伏が封印したと言い伝えられていてフタをされた廃井戸となっているが、歯痛に効くという信仰があってフタの上に楊枝(歯ブラシ)と塩をあげて 拝む人が絶えなかった。しかし後世に井戸の水が汚水と変わったために汲む人も無くなり、明治15年に取り潰されて今では場所すら明らかではない。大正の頃 までフタには楊枝と塩を乗せる習慣が続いていた。』

という事です。記載はいろいろな資料を広く集めて書いているせいか整合性は優先させて無いようです。小さな疑問がポツポツ。矛盾も。

「なんで山伏は封印したんだ?」とか、
「そもそもどういう山伏だったんだ?」とか、
「歯痛と何の関係があるんだ?」とか、
「封印してあるのに水汲む人がいるんだ?」とか、
「明治15年に壊されたのに大正時代って?」とか、
「フタは?材質はなに?」とか、とか。

でも現在残っている山伏井戸の情報はこれぐらいのもんなのかもしれません。どちらかと言うとマイナーな信仰対象だったのかな。あくまでもこの世界での山伏井戸を書きました(なまずランプ第2巻)



尚、所在地は現在正確なところは不明のようだが、「久松町の町裏三五番地」にあったとされています。漠然とした位置としては当時の切絵図に記載があるようです。

(「東京時代MAP」:新創社編・光村推古書院より)

--------------------------------------------------------

よく考えたら当時は虫歯にかかると確実にその歯を失う。放置すれば更に広がって何本も失う。深刻な問題だったんだなぁ。

…歯みがき頑張ろう。


025 長屋
江戸下町の長屋は狭く、住人の互いの距離が近い。

それ故に温かい人情話が生まれ、住人達には助け合いの精神がみなぎっていたりした、


…と、言われているが実際はどうだったか判りません。
過ぎ去った過去、消えていった世界というのは思い出と同じく美化されがちですし。
でも人情の存在を否定したくはないですね。
「人情」と言葉にしてしまうからうさんくさいけれど、空気みたいなものだったんじゃないでしょうか。
お隣の本のページを めくる音が聞えてくる程寄せ集まって暮らしていれば、互いのリズムが判ります。
それに合わせ、察し合い助け合ったりする生き方が定着し、一つの時代と場所の空 気を形成したというのは自然じゃないでしょうか。
そういう世界だったならすばらしい事だと思う。

--------------------------------------------------------

江戸の長屋について。

長屋は裏店(うらだな)と呼ばれ、

「表通りに間口を開ける町人階級の店々の裏側の、使ってない土地を活用する為に建てた都市下層民用集合住宅」

です。一つの裏店は一つの共同体となります。
ピンキリだったようです。粗末な細長い小屋のような物もあれば、画像のように二階付きの上等のもあります(主人公の長屋は後者)。繁華街の裏店ともなれば各戸の部屋数も多かったでしょう。
また裏店は表通りには面しません。
路地が通路で、その路地には門限のある木戸が設けられて大家がそれを管理していました。

下は鮫河橋の貧民街長屋の木戸(1巻参照)。住人達の職業看板が出ています。



裏 店であっても都市としてのインフラは同時期のヨーロパ諸都市よりもましだったようです(※江戸時代後期)。路地中央には一本の溝があり両側の家庭からの排水が地下 を通って集められ、他にも生活用水の水道があり、排泄物&ゴミ回収システムも確立していました。中々絵で伝えにくい部分です。



026 


二話目の鶴之助
出オチに近いキャラ。一応プロフィール。
 [常 陸生まれ、32歳、某小藩の重臣の妾腹の子と言われるが定かではない。江戸へきた当初は武家の中間部屋などにいた。やがて東両国に出入りするようになり人 身売買稼業にも手を染める。ちょうどその頃からなぜか少しずつ首が伸びはじめるのだが本人は気付いておらず、周囲もあえてそこには触れない。]

「…」

なまずランプ第2巻:参照



027  京料理は粗雑でうまくないのか? 
京料理は粗雑でうまくないのか?



…これはあくまでも江戸時代の話です
 守貞漫稿に記述されている幕末の東西料理評論によります。彼が言うには京都は江戸と比べて料理が洗練されていないという。
人口が 集中する首都において何事も洗練されやすいのかもしれない、いつの時代でも。
江戸時代の後半に入るまでは京都大阪など「上方」が文化的優勢を維持していた が、最終的には逆転してしまったようですし。

もっとも守貞の言う精粗の違いは「盛り付け」や「手間のかけ具合」などの事でして、「味」に関しては江戸と上方で根本的に好みが違う、と述べています。どうやら

上方人---「江戸の料理は甘ったるい(濃い)、素材の味が損なわれている」
江戸人---「京都の料理は味気ない(薄い)」

が、幕末における両者の感想だったようです。
味の濃い薄いは現在にも通じます。また調理にかける手間も江戸の方が多かったようです。
でも菓子類のクオリティーに関していえば(饅頭や餅以外は)京都の方が進んでいるという感想もあるようです。

ふと思うのですが「味」というのは感覚的でその時々の物なので例え江戸時代からの老舗であっても当時の味がそのまま伝わっているという保証は無いですよね~。
当時の美味いとされている料理が現代にタイムスリップしてきたらとんでもない味だったりするのかもしれない。



なまずランプ雑記帖 028~035 へ

HOME















inserted by FC2 system