なまずランプ雑記帖 015~020 (ブログの文章の過去ログをまとめたものを加筆修正)


015 小判って今ならいくら? (081212)
江戸で暮らす人々は、「複数の国家の通貨制度が並存するかのような環境」で生活していました。
貨幣に対する感覚は現在とは随分違っていたようです。

 大ざっぱに分けると「銅銭」「金銀貨」「銀の分量」の三つの制度。
 小判と銅銭は、例えば円とドルのように相場による時価で常に変動しました。
大体は小判1両=銅銭4000文~8000文の範囲内だったらしいです。

 「1両の現在に置き換えた価値」は基準や時期によって違い、4進法だった当時の貨幣の性質上か4の倍数にされている事が多いですね。
 ある本には「2万円」、またある本には「4万円」、またある本には「8万円」とありました。そしていつだったかTVで杉浦日向子先生は「16万円」と。
 ただいずれも江戸時代のどの時期なのかは不明でした。安定していた文化文政期辺りの事でしょうか?

 「幕末安政年間の一両は現在の何円?」が気になります。 
これが簡単なようで難しい。「食費 : それ以外(人件費、サービス料、家賃、雑費etc)の比率」が現在と全然違う。
食費がかなり高い。またこの時期、横浜開港などで物価が高騰をはじめてまして、しかも貨幣は乱発されて価値もどんどん下がっていく。
 で、結局、
 研究者でもない僕はフィーリングで設定する事にしました。つまり「なんとなく」。
当時の貨幣の実際の使用例をいくつか見た結果
なまずランプの中では、1両=8万円! 
この数字が一番、現在の貨幣と刷り合わせやすいです。



これに合わせて他の貨幣も設定。↓
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1分銀(1/4両) =1万円2枚…の感覚(2万円)  (写真右下)
1朱銀(1/16両) =5千円札…の感覚      (写真中下)
天保銭 =1000円札…の感覚        (写真右上)
4文銭 =50円玉…の感覚          (写真中上)
1文銭 =10円玉…の感覚          (写真左上)
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銭は若干計算が合わないけれど「現在の使用感」を優先しました。

 …幕末の5千円札、落としたら見つからねぇぞ~。 




016 豆腐 (090119)


最近豆乳にはまっているので物語中でも触れた豆腐について。

江戸時代の豆腐の値段は幕末近くで「一丁60文--今の600円」結構な値段です。
…とはいえ、実は今より一丁のサイズが大きく今の4倍だったようです。なので4で割るとこの頃の豆腐は

 一丁150円

やっぱ食費高ぇ~。食卓にお馴染みの品だったようですが。

そして実は江戸の豆腐にはお決まりの浮き彫りがありました。

「紅葉マーク」

です。「紅葉=コウヨウ=買うよう」とかけているのだという。(…別に豆腐関係ねぇじゃん)
 上方では「菱形」のマークだったようです。菱形は単に豆腐の形を意味しているのでしょうか(?)



017 「未来をひらく福沢諭吉展 」へ行く (090308)

今日までだったので「未来をひらく福沢諭吉展」を見に行きました。上野公園内表慶館。
福沢諭吉は身長が170センチ以上あったらしく、当時としては大柄。
父(百助)は低い身分に生まれたせいで才能がありながら世に出る事もできずに死んでいきました。
そんな父の姿もあってか諭吉は古い封建的体制を嫌ったようです。

当時知識人の誰もが西洋学問を意識し始めていた中で、他の日本人よりもいち早く渡米する事ができました。早いスタートを切る事ができたのは彼にとっては幸運な事だったと思います。

 写真を見ると若い頃から中々の男前。一緒に渡海した誰よりも多く自分の写真を撮りまくってます。
彼は西洋文明にどっぷりハマってその後の日本の近代化の起爆剤となって貢献しました(…後遺症も多かったようです)。

諭吉展の最後に彼が著書の中から現代への三つの問いかけをしている、という形式の質問があったのでうろ覚えだが記載します。
 
1 「気品」とは何か? あなたが気品を感じる人は?

2 あなたに宗教は必要か?
  今までに人を超えた存在に救われたと感じた事はあるか?

3 学問はなぜ必要か? 今あなたがひとつの事を自由に研究するなら何か?


大体こんな内容であっていると思います。
 
さていかがでしょう?
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 諭吉展を見た後、(前回上野に行った時は東大方面へ向かったので)今回はその反対の浅草通りを墨田区の方へどこまでも歩く事に↓



018 浅草通りを東へ東へ東へ-01 (090310)

福沢諭吉は晩年、「散歩党」と称して健康のために弟子たちとともに毎朝散歩を行っていたらしい。
 別にそれにあやかってと言う訳ではないが諭吉展を見た後、上野公園から浅草通りを江戸時代の通りに沿って東へ歩く事にしました。 江戸市中のこのルートを通るのは初めてでドキドキ感がある。

何がどういう風に残っているのだろう?

一応最終目的地はありますが、行程を吟味しつつ行きます。



浅草通りは江戸絵図によると寺ばかりだったようで、今でも仏壇屋がズラリと並んでいたのが面白い。

人が一生に一度買うか買わないかの品だと思うけど、仏壇屋って儲かるんでしょうか…?

 しばらく進むと目にとまったのは「下谷神社」。

今は大通りより奥まった土地に鎮座していますが、絵図によると江戸時代にはこの場所の通り際に「下谷稲荷」という稲荷があったらしい。周辺地名も当時は「稲荷町」だったようです。今では稲荷社は下谷神社内に小さく祭られている。


キツネだらけの岩があった(ひょっとして富士山の溶岩かな?)。

 菊屋橋交差点↓
 北を見ると有名なカッパ橋問屋街。当時はここに新堀川(青ライン)が通り、北東が東本願寺に接していました。(が浅草通り)
 雑な走り書きですが、江戸時代の絵を元にして同じ角度で風景を描いてみました(下)。手前は門前町。材木置き場がある。そして遠く東本願寺の大屋根が見えました。


きっと今より空が広かったはずです。



019 浅草通りを東へ東へ東へ-02 (090316)



菊屋橋を通って更に進むと浅草寺雷門。



さらに進むと吾妻橋が見えてきました。

隅田川の向う岸には黄色いウ○○が雄大にたなびいています。

橋の中央から下流方向を。

写 真の水色の橋は駒形橋、その向こうは厨橋、その向こうは蔵前橋で、いずれも江戸時代にはありません。現代では地下鉄や車で簡単に都内の東西を行き来す るので「大川を越える」という意識が薄いのですが、この長い距離に橋が一つも無いとなると当時船があったとはいえ、川の両岸の交流もかなり遮られたでしょうね。

 当時は「江戸」というくくりの中でも隅田川を挟んで東西で文化圏が多少異なったかもしれません。




020 浅草通りを東へ東へ東へ-03 (090328)


吾妻橋を渡るとそこは江戸時代に向島と呼ばれた土地。大横川という隅田川に平行して走っていた堀があり、そこに架かっていた業平橋が現在も残ってます。


吾妻橋の方を振り返ると「少し下り坂→少し上り坂」。江戸時代もこうだったんでしょうか?


橋の下を覗き込んでも大横川は無く、こんな感じの公園に↓…なんだろここ?


更に進むとやっと僕の本当の目的地、「押上」に入ります。
江戸時代は「押上村」と呼ばれ、郊外の村でした。




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