なまずランプ雑記帖 001~014 (ブログの文章の過去ログをまとめたものを加筆修正)


001 牢屋敷 (2008-0307)
牢屋敷内外は江戸時代の絵図、明治の平面図など数点が残されており、それを元に描写しました。
東京都中央区:小伝馬町牢屋敷跡は大部分が今は「十思公園」になっています。

↑写真の緑の屋根の寺、一角が丁寧に供養されてます↓
処刑場跡。
数々の斬首刑がこの地面で。東京都心にこんな場所が。
だからってこの土地が不浄だの縁起が悪いだのって事はありません。
ちゃんと供養されてますし、また人はあらゆる土地で様々に死んでいます。

十思公園、「時」が静かに流れる安らかな場所。
どうしようこうしようと歩き回っていたのは去年の春でした。
(→なまずランプ雑記帖-次回は不定期更新)


002 首切り役:山田浅右衛門 (2008-0311)
 江戸幕府の首斬り役は代々「山田浅右衛門」を名乗る家が勤めました。
なんとこの子孫が建立した碑が自分がよく通る道の途中にあるらしい。で、去年、さっそくこの東京都豊島区「祥雲寺」に探しに行きました。
 ありました。
戒名と共に辞世の句も一緒に記されています。
山田家は代々教養人で交際も広かったといいます。
話中の彼は七代目山田浅右衛門「吉利」。明治17年没。
安政の大獄の最中の人。彼の息子の写真が残っているのでそれを参考に描きました。




003 両国広小路 (080319)
両国橋西側の広小路は江戸屈指の繁華街。「江戸東京博物館」にある模型↓も参考にしました。

ただ時代設定はこの模型より何十年も後なので時代色も加味しました。
両国の川開きの終わる旧暦の8月28日までは茶店などの夜間営業も許可され賑わいました。
本物の広小路、見てみたいですね。


004 江戸貧民層 (2008-0322)
鮫河橋(さめがはし)には幕末明治に貧しい人たちの住む地区がありました。
近年、その近くの円応寺(現在は移転)という寺の境内が発掘調査されました。

その一角から江戸時代の墓地が見つかりました。
たくさんの棺が重なり合い、重複しあってごちゃ混ぜに出土したようです。
次々同じ場所に葬られた様子。貧しい人々の墓ですね。
恐らく檀家とは関係なく、諸国から江戸へ流入してきた人々の墓だろうといいます。
都市の深刻な墓地不足はこの頃からあったようです。

「死ねばおしまい」
この葬り方には都市民のあっさりした死生観もあるのかもしれません。


005 旗本 (080511)

「旗本」
 大名とは違い、徳川家の直接の家来で将軍にお目見えできる一万石未満の武士。
一万石未満と言っても最も比率が多いのは五百石以下。
この基本支給額ではどの家も生活する上で全く足りていませんでした。
これとは別で職に就かないと給料はもらえません。
「徳川家の家来」というのはあくまでも 身分であって「職名」ではないのです。


006 江戸町奉行所-定町廻り同心 (080520)

町奉行所-定町廻り同心

 人口百数十万人の大都市江戸に30人足らずしか居なかった警察官。
 管轄である町人身分が60万人だとしても、「二万人の人間を一人で受け持っていた」計算になります。警察官と言うよりももはや「警察官僚」ですかね。
 刀を差してはいるが武士としての身分は低く、侍と町人の間のような服装や髪型をしています。十手は常に携帯していますが、懐に入れたり背中に差したりして見せません。羽織は裾を巻いて帯に挟んでいるので普通より丈が短く見えたようです。
 左手を刀の柄に乗せて颯爽と(またはブラリブラリと)巡回したといいます。


007 山ノ手武家居住区と旗本屋敷の庭 (080610)
 気分転換に9話目の旗本屋敷に色をつけました。この背景を書きながらいろいろ考えていたのを思い出します。

 「当時300石取りの旗本の庭はどんな風だっただろう?」



 広さは300~400坪はあったと思えます。広い。まず何か作物は植わっていたかもしれませんね。300石と言えば下級な方だが、家の主は勘定組頭なので他の貧乏旗本よりは裕福だったでしょう。
  武家屋敷は職場である「表」と居住区間である「中奥」、そして奥方などがいる「奥」の三つに分かれていました。
庭のその仕切りはどんな風だったんだろう?表と中 奥の間には柴垣でもあった?それとも板塀か…。居住空間なら盆栽などもやってたかも。作物に水をやるための非飲料用の井戸も置いてみました。
 また実家が古い家なのでその庭も参考にしてみました。余った瓦や石を埋め込んで作物の仕切りなどにしていたのを思い出します。
また今回曲がりくねる坂道に沿った武家屋敷地区を是非とも描きたかったです。武家屋敷と言えば「山の手」(=丘陵地)に多い。時代劇は水平な地面に造るセットだからしょうがないのですが、たまには坂道沿いの武家屋敷も見てみたいですね。
いろいろ考えているとひと時脳がタイムトリップします。


008 上野山下 (080628)
 上野:1
 3話目でも扱った山下火除地の場所。
ちょうど上野駅の端に重なる。ここに広場があり、仮設の芝居小屋や見世物などが並んでいました。潜りの遊女も多く出没したといいます。天保の改革で一度徹底的に取り払われたが、幕末には復活して明治に至ったようです。

 今では見る影も無い。でも変わっていないより変わっている方が面白かったりもしますね。駅前空間、アメ横、雑多な品々、ホームレス、深くくすんだ街の匂いは今も同じで味わい深いです。


009 加賀藩上屋敷跡-東京大学 (080629)
上 野公園から不忍池を横切る遊歩道をまっすぐ進むと「東京大学」に。上京して以来、東京大学は見るのも入るのも初めてです。ついつい歩き回ってしまう。こ こは江戸時代、「加賀藩の上屋敷」でした。江戸時代の大使館のようなものだが、大使館と呼ぶには広大すぎる。そして下は赤門です。

赤門は将軍の娘を嫁に迎えた藩だけが持つ事の出来る姫君専用の門。東京に数少ない現存する大名屋敷構造物の一つ。
屋根のてっぺんには将軍家の葵紋が並ぶが、存在感は下の前田家家紋の方が勝っている。これはわざとだといいます。

そしてこの東京大学にはもう一つ、大きな大名屋敷の遺跡「三四郎池」があります。
大名屋敷の庭園の名残だというので地図を頼りに向かってみました。
下図のような光景を想像しながら。

 
しかし地図からの想像なんかアテにならないもので、実際に行ってみると…














まるで密林。











足元に埋まる瓦片は大名屋敷時代の物?


う~ん、それにしても都心の大学構内にこんな場所が。
…恐るべし東大。恐るべし加賀百万石。
-->

そして三四郎池の出口から上野公園の方角を望む。
幕末の上野戦争ではこの加賀藩邸から上野に向け、佐賀藩の新兵器「アームストロング砲」による砲撃が加えられたといいます。



010 特集「京都幕末旅行-01」 (080829)

 突然に京都へ行った目的は二つあります。

①「幕末関連の夏休み展示を見る事」
②「ただの町並みを無目的にだらだら見て巡る事」

  僕が一人旅が好きなのは②を思う存分できるからです。複数で旅行に行くのも楽しいし好きだけど、名所も見ずに無目的に②ばかりを行うのは余程感性が一 致した人でないと不可能ですので。生活の中にある雑多で古風な生きた町並みは名所以上に京都の大きな魅力のひとつ。そういうものも楽しんできました。 
という事で京都駅到着。早速七条通りへ。


西へ進むと良さそうな町屋発見。蔵がいい味を出している。この路地を北へ行くことにしました。帰宅して調べると「新町通り」というらしい。まっすぐ進むと東本願寺の裏手に出るはず。


京都は寺の都。こんな狭い通りにもお寺が点在する。


そして路地から更に路地が別れています。石畳の路地。


ちょっとした隙間からもまた別の家々と路地が見える。

 
町屋も多い。


新町通りを抜けると、予想通り東本願寺の裏手に出ました。堀に囲まれた巨大寺院。昔何度も来た事がありますが、裏門はあまり見た記憶がないです。


堀をのぞくと、なんとオイカワが群を成して泳いでいました。特徴あるヒレをしており、上から見ただけですぐ判別できます。清流にしか住まないオイカワがこんな大都市の真ん中で普通に泳いでいるとは。鴨川からの水がきれいなんでしょうか。



僕はここから西を目指した。


011 特集「京都幕末旅行-02」 (20080901)


  東本願寺の裏通りを西へ進むと西本願寺。櫓のような建物が太鼓楼。1865年、新撰組がここを基地に定めました。本願寺は長州と縁が深かったので ターゲットにされたようです。すっかり京都では嫌われ者だった新撰組ですが、そういう事を気にしないのが関東武士(田舎者?)なんでしょうか。



ちなみに西本願寺で「練塀」を発見。埋め込まれた瓦が列を成して露出している塀。
 一話目の舞台にした伝馬町牢屋敷、この練塀で囲まれていたといいます。
あの時は実物資料をいろいろ探しましたが、こんな所でいきなり現れるとは。





途中、「the長屋!」と言えてしまえそうな建物。良すぎる。
この道をさらに進むと…




出た、「島原大門」。島原は江戸吉原よりも格式の高い遊郭。
モノクロは明治初期の様子。
現在の大門も当時の様子に近づけようと柳の木や小道具など凝っているのが分かります。門は当時からの物。




いそいそと門をくぐる!

…まぁ、門をくぐっても遊郭が広がっている訳ではないんですが。



012 特集「京都幕末旅行-03」 (20080904)
出ました!日本に唯一現存の置屋(左)と揚屋(右)の建物。(これは二枚の写真であって向かい合っているわけではありません)角屋は一般公開していますがこの時は入れませんでした。
・揚屋は「料亭、饗応宿泊場」と解釈していいでしょうか。
・置屋はそこへ人を派遣する「タレント事務所・寮」。
なんとこの揚屋「角屋」は新撰組も足しげく通ったといいます。いろいろ喧嘩騒動などもあったのかな?







島原を出てしばらく西の方角へ戻っていると相変わらず至る所に心ひく路地裏が見えます。






到着、京都国立博物館。

実はここで坂本竜馬の夏休み特別展示をやってます。写真不可ですが直筆の手紙が沢山展示されていて、暗殺された時の血のついた屏風や掛け軸もありました。

 竜馬の血 …う~ん、すごい瞬間の証言物のハズなんですが、中々実感が湧いてこない。いまいち伝わらない。

 たぶん暗殺されたその時間と場所空間を構成する一部品を、個々にガラスケースに収めてライトアップしているから(保存上重要で的確な措置だが)。例えば暗殺された部屋ごと再現してそこへ展示すれば少し感じ方が違ったかもしれません。
 僕は実感が湧いてくるまで何度もその前へ立ってみました。それでやっと少し映像を思い描く事ができ、気配を感じられた気がします。

 即座に竜馬を実感できた展示品があります。本人が使っていた財布です。「渋くゴージャス」な財布で、センスや好みなど、内面的な物が伝わってきた気がしました。

博物館を出ると京都市街の東端に沿って北を目指します。

そこには次の目的地の博物館が。


013 特集「京都幕末旅行-04」 (20080907)


京都国立博物館から京都の東端の「(旧称)東山通り」に沿って北へ。東山の麓に沿った道路で、

左を向けば京都市へ続く下り坂の路地、





右を向けば東山への上り坂の路地があります。





上り坂のひとつを行く。







この坂、中々急なんですが、途中にある東山の光景は旅情をくすぐる。



そして上がりきったところで「霊山(りょうざん)博物館」に到着!

幕末の動乱に殉じた志士たちの墓地の傍に作られた博物館だ。坂本竜馬の墓や、志士達の供養碑があります。
京都へはここを訪れる為に来たようなものでして。展示品は少なめの博物館ですが、さすが志士の墓地の麓にあるだけあって独特の個性的な展示品が並ぶ。またここは京都国立博物館とは違い、模型なども多用して再現展示してくれている辺りも親しみやすい。いくつか挙げるなら

 幕末戦争で使用された銃、新撰組の血染めの旗、竜馬を斬ったとされる刀、等々。

 内部の写真は撮れないがいろいろ考えさせられました。話を聞きに学芸員室に入ったりもしたので3時間ほども滞在してしまった。外に出ると日が傾いていたので、急いで裏手にある竜馬の墓へ向かいます。
 入口で線香を買って山を登ると見晴らしの良い高台に竜馬の墓はありました。お墓はあくまでもお墓。供養のためにある石塔でしかなく…





 心が熱くなるのは墓そのものよりも周囲に散りばめられた参拝者たちのメッセージの石版でした。
 むしろこれが坂本竜馬ではないでしょうか。



線香を上げて下山し、最後の目的地池田屋に向かいました。



014 特集「京都幕末旅行-05」 (20080909)


霊山博物館から祇園を越えてさらに北へ進むと四条河原が見えてきました。カップルが等間隔で並ぶ事で有名なこの河原には幕末、島田左近や近藤勇などの首が晒されたといいます(右は幕末明治の様子)。

  


さらに北へ、池田屋を目指します。
「祇園祭前日に京都御所に放火、天皇を長州へ連れて行く」という密議をしていた攘夷派浪士達と新撰組がやり合った池田屋事件の現場。
三条河原を西へ渡ると池田屋跡があると言うのですが…

確か聞くところによると現在「ガソリンスタンド」になっていると言うのでそれを目印に進みます。

 でもいくら進んでも見つからない。傍の店の人に聞くと、どうやら僕は通り過ぎてしまっていたようです。

今は「パチンコ屋」になっていると。それを目印に引き返しました。






あった。





パチンコ屋も廃業し、空きビルになっていました…



簡単な碑と案内板だけが立っていて、案内板には解説とここで戦った志士のプロフィールが記されています。



京都の町の地所は細長く、池田屋も奥行きのある建物でした。
試しにこのビルの奥行きにイメージを重ね合わせてみましたがちょっと無理かもです。







町は変わるもの。

特に木造日本家屋はほとんど新築される事がありません。
京都のように意識的に古くからの姿をとどめようとしている町でも少しずつ少しずつその姿を消してゆきます。

     

しかしそれが時代の移ろいというものでしょうね。

僕はせめてデジカメ片手に歩き回ってそれらを撮る事で、その姿を個人的に集めて満足しようと思います。




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